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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第2節 夕闇の十字路 [9]




 夜の臨海公園。タンカーや埠頭の明かりが一方向から差し込み、光の当らない部分に漆黒の影を浮かび上がらせる、だけどそれは決して闇ではない。そんな世界の中で向かい合ったのはつい昨日の事。なのに、まるで何年も昔に起こった出来事のような気がする。
 なぜあの時、自分は我慢できなかったのだ? なぜ今まで頑張って抑えてきた想いを、あそこで吐露してしまったのだ?

「私、霞流さんの事が好きなんです」

 美鶴はベッドに半身を起こしたまま、両手で顔を押さえる。
 なぜ我慢できなかった? 他人への情など不必要だと、押し込めて切り捨ててしまったはずなのに。
 そんな美鶴の問い掛けに、艶めいた唇がグニャリと笑う。

「僕の事が好きなんだろう?」

 嘲笑う。
 明滅する周囲の中、響き渡る音は音楽とは言えず、まるで怒号のように美鶴に迫る。妖しく蠢くのはみな影ばかり。どれもこれも実態などなく、ただ口元のみが楽しげに笑う。
 無様に騙され、想いを呆気なく()なされた美鶴の醜態を、激しい嘲笑が責めたてる。
 嗤われた。また自分は嗤われたのだ。
 羞恥を含んだ悔恨に身体を震わせる美鶴の肩に、智論はそっと右手を置いた。
「誰にだって見破れないわ」
 小さいが、凛と澄んだ響きが篭る。その中には小さな怒りも。
「慎二のやっている事は、本当に姑息で陋劣(ろうれつ)で小汚い事だから」
「私が霞流さんに何かしたんでしょうか?」
 ガバリと美鶴が顔をあげる。その表情は緊迫していて蒼白もしている。智論の目には痛々しく見える。
「あなたは何もしていないわ」
 こちらが狼狽すれば、相手を不安にさせるだけだ。
 智論は言い聞かせ、できるだけ優しく言葉をかける。
「あなたが悪いわけじゃない」
「じゃあ」
「美鶴ちゃん」
 美鶴の言葉を、やんわりと遮る。
「あなたが悪いわけじゃない。悪いのは100%慎二。あなたは被害者。被害者が真実を知りたいと思うのは当然。だけどね」
 そこで相手を諭すように言葉を切る。
「だけど、なぜこんな事になったのか、それを知る必要は、あなたには無いと思う」
「どうしてですか?」
 肩に置かれた手を振り払い、責めるように身を乗り出す。
「どうして知る権利が私には無いんですか?」
 父親の事だって、美鶴には知る権利があったはずだ。だが綾子(あやこ)も母の詩織(しおり)も、美鶴から隠した。
「私には知る権利がないと言うんですか?」
「権利はあるわ。ただ、必要が無いと言っているだけ」
「同じ事です」
「全然違うわ」
 乗り出す美鶴に臆する事なく、智論はまっすぐに美鶴の瞳を見つめる。
「なぜ慎二がこのようにあなたの気持ちを弄ぶような真似をしたのか。その理由を知る必要はない」
「どうしてです?」
「知っても、現状が変わるわけではないから」
 美鶴は思わず息を吸った。
 現状が変わるわけではない。
 美鶴の想いが霞流慎二に届く事はない。受け入れられる事はない。
 視線を落し、唇の震える美鶴の姿に、智論は視線を細める。
「慎二が女性を相手にする事はない。慎二が求めるのは同性」
 光と影が交じり合う世界の中で、毳々(けばけば)しい存在が慎二の唇を奪う。繁華街の地下室に拉致された美鶴を助けに来た慎二。彼の背後で艶かしい男性が揺れている。
「異性には興味が無いなどという生易(なまやさ)しい問題ではないわ。同性愛だとか性同一性障害なんて言葉、彼には当てはまらない。慎二が同性を求めているという表現は、正確に言えば間違っているのかもしれないわね。同性を求めているのではなくて、異性を嫌っていると言った方が正しいのかもしれない。彼にとって、女性はそれこそ嫌悪の対象ですもの」
「どうしてですか?」
 呟く美鶴に、智論はため息をもらす。
「知って、どうするの?」
 答えられない美鶴に、智論は言葉を重ねる。
「どうするの? 慎二を変えようとでも思っているの?」
 慎二を振り向かせようとでも思ってる?
 それは無理よ。
 無言でそう断言される。







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